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介護の森で見つけた光B 『― 改めまして、はじめの一歩 ―』 

中川 春彦


 「稽古とは 一よりならい 十を知り 十よりかへる もとのその一」

これは安土桃山時代の茶人、千利休の言葉で、「稽古というのは、初めて一を習う時と、十まで習い元の一に戻って再び一を習う時とでは、人の心は全く変わっているもの。十まで習ったからこれでよいと思った人の進歩はそれで止まってしまい、(茶)道の本質を理解することはできない。」との教えを和歌の形で表したもので、初心に帰ることの大切さを説いている、とされています。

 先日合氣道の師匠から書を頂き、その中に書かれていたのがこの言葉でした。

 私が今置かれている状況にピタリと当てはまる所があり、今回はこの言葉を軸に話をしていきたいと思います。

 

 ラヴィータ・ウーノで働き始めて丸9年。現場で介護を続ける中で、ケアプランとその運用がとても大切である、ということを訴え続けてきましたが、同じ介護の世界の話であっても、高齢者の施設介護と同じ方法論では全く立ち行かない現実があるというのを身にしみて感じる出来事が最近ありました。その問題は今でも解消はされていないのですが、ケアプランやケアマネジメントという方法論を超えて、生きづらさを抱えた人の生活を支えるとはどういうことなのか?よい支援とそうでない支援はどこで分かれるのか?を考えるきっかけになったので、その話をしてみたいと思います。

介護、と一口に言ってもそれは高齢者介護に限定されるものではないし、まして入居施設の中で行われる介護のことだけを指すなんてことはありません。少し視野を広げただけでも、障がい者の人たちを初め、様々な人が介護を受けながら生活していることが分かります。縁あって統合失調症という精神の障がいを抱えた人の支援に関わることになったのですが、今までの介護職としての知識や経験がほとんど通用しない事態に直面しています。

病気のこと、薬のこと、お金のこと、状態に応じた対応法、直接支援してくれたり情報提供してくれたりするサービス拠点のこと。知らないことが多すぎて、てんやわんやの毎日です。

ただ、では全く活かせるものがないかと問われれば、そうではないような気はしています。分からないことだらけではあるけれど、何かは確かにすでに活かすことができている、と感じます。

「高齢者介護」「ケアプラン」「ケアマネジメント」

そのままでは活かせないけれど、その中の大切な要素(エッセンス)は確実に活用できている。では、そのエッセンスとは何か?

それは、「アセスメント」であるということが徐々にはっきりしてきました。アセスメントとは、介護分野では課題分析や事前評価と訳されることが多いですが、調査項目があらかじめ決まっていて、それに沿って聞き取り調査を行えば、誰もが正確にその人の身体状況やその人の置かれている様々な状況から課題が客観的に把握できる、というもので、ケアプランを作成する前に必ず行わなければならない、とされています。

もちろん誰でも正確に、というわけにはいかず、ベテランになるほどアセスメント業務に習熟する(逆に言えば新人は正確にアセスメントを行えない)ということはあると思いますが、私が今から言おうとしているアセスメントはそういった一般的な解釈における業務としてのアセスメントとは少しニュアンスが異なります。

 

 私は合氣道の稽古をずっと続けているので、合氣道と絡めて色々なことを考えることが多いのですが、合氣道の立ち合い(相手と向かい合い、互いに相手に作用を及ぼそうとしている状況)において欠かすことができないのも、このアセスメントだと最近考えるようになりました。

 合氣道では、他の武道では当たり前に存在する、どちらが強いか競うという意味での試合がありません。稽古においても投げる(技をかける)方、(技を)受ける方に分かれて、ある程度約束事で技をかける、ということがあります。ただ、馴れ合いではなく真剣に技をかける時(かけられる時)には、相手の体に触れると(もっと言えば相手の体に触れる前に)瞬時に相手との力量の差がはっきりとします。

相手の力量が自分よりもはるかに勝る時、技をかけようとしても相手の体は微動だにせず、逆に気づいた時には自分の体勢が崩されてしまっているという現象が生じます。(達人を前にすると、技をかける・かけないの次元ではなく、身動きがとれなくなって、技をかける気にすらならないことも。)逆もまた真なりで、自分が圧倒的優位に立つ時は、深く考えずとも相手の体をいとも簡単に崩すことができ、相手からの作用は一切受けない、というのを体感することができます。

 問題なのは相手と力が拮抗している時です。技がかかるはずなのにかからない。相手の技が効くはずがないのに作用を受けてしまっている。力が拮抗している時、多くの場合、人は相手を自分より下に見ようとします。けれど上から目線で相手に作用を及ぼそうとすると、あなたからの作用は受けたくないという思いから技を頑張って止めようとする逆の作用が働きます。思い通りに相手が動かない焦りや苛立ちから力づくで相手を動かそうとしても、相手はさらに動かされまいと必死でこらえようとします。たとえそれで相手を倒せたとしても、何とも腑に落ちない、モヤモヤした感情(劣等感やゆがんだ優越感)をお互いに発生させてしまいます。

一方で、力量の差がお互い明確になっている時は、余裕があるので相手を思いやる心が生まれ、その心が相手の警戒心を取り除き、何の抵抗もなく技が決まる、という現象が生じます。投げる方、受ける方が逆転してもこの現象は成立します。(つまり、技をかける方が未熟でも、受ける方が「こう導くと気持ちよく(私が)倒れることができるよ」というのをうまくリードすることができれば、技をかける方が自分が達人になったと錯覚するほどうまく技を決めることができる、ということです。)

後に残るのは双方の心地よさだけ――。

 

ここで、大切な合氣道のエッセンスが垣間見えてきます。相手との力量を推し量る際、相手を倒す(作用を及ぼす)ことしか考えていなければ、相手の反発を招き、無駄なエネルギーばかり消費してしまいます。逆に自分の我を捨てて相手の立場を汲み取り、一体化して一緒に動ければほとんどエネルギーを使うことがないばかりか、逆にエネルギーをもらう(与える)ことさえできる。投げれば投げるほど、投げられれば投げられるほど、自分の中に凝り固まって体のあちこちにこびりついていた余計な何かが削ぎ落とされていくような感覚を味わうことができます。

 

 ここまで考えを進めていくと、一般的に介護分野で言われるアセスメントと、武道の立ち合いにおけるアセスメント(私が勝手にそう呼んでいるだけですが)との違いが明確になってきます。

 前者がじっくり時間をかけてその人の客観的な「今」を知ろうとするのに対して、後者は瞬時にその人の「今」(の心と体の状態)を知るのと同時に相手をどう導くのか(相手がどう導かれたいのか)を考え、考えるのと前後して自分の体がすでに動いていなければいけません。(時間的に幅のある「仮の今」と、相手との関係によって変化する「リアルな今」の違いとでも言えばいいのでしょうか)

 これはもちろんどちらかが優れていてどちらかが必要ない、ということではありません。高齢者に限らず、人の状態というのは目まぐるしく変化していきます。その時に、固定化されたその人の評価を元に支援を続けていると、対応を間違えてしまう場面がたくさん出てきてしまいます。逆に、その時々の刹那の対応だけでは人によって対応がまちまちで長期における見通しが立たず、チームで人を支えたり、関係を継続していくための基盤を構築することができません。そういう意味では時間をかけてじっくりその人(の「いつもの状態」)を知る努力と、その場その場の状況に応じて瞬時に適切な対応ができる能力が車の両輪のような関係でともに大切であるということが分かってきます。

 項目がどれだけ細分化されてきめ細やかに調査を行ったとしても、紙の上に情報が写し取られた段階で、その人のリアルな「今」の状態からは遠ざかっていってしまうかもしれません。アセスメントは一旦やればいいというものではなく、6ヶ月毎にやればいいというものでももちろんありません。紙の上に情報を写し取るのは、多岐に渡る様々な情報を整理するため、またチームで支援する時に最低限の情報共有を図るため。おおまかにでもその人の「普段の状態」と「よく現れる普段とは違う状態」が分からなければ支援の方向性が定まりません。ケアプランもしかりで、「普段通りの状態」であればこのように支援すればこの部分の機能が維持・向上するはず、という仮説をチームで共有するために作成するものだということが徐々に明確になってきました。

 

ケアプランが紙の上だけのものになっているというのはよく聞く話ですが、私はケアプラン作成を無駄な業務だとは考えていないし、そんな風には絶対にしたくないという思いがあります。けれど、きめ細やかなアセスメントの元、適切なケアプランが作成されたとしても、それだけで十分だとは私も考えていません。書類としてのケアプランというのは、あくまでもチームで関わる際の基本事項であって、その時々の(いつもと違う状態への)実際の対応は、その人にその時対峙した人個人がその刹那に行ったアセスメントを元に行うのであって、紙の上の情報を頭の中でなぞっている段階でその人が今求めているものからかけ離れていく、というのは確かだと思います。

 

 先ほど挙げた統合失調症のある彼女への支援はこれから様々なことを考え、形にしていかなければいけません。障がい程度の区分認定(高齢者でいうところの要介護認定)を終えたばかりで、(1〜6の)結果が出次第ケアプランが作成されることになると思うのですが、圧倒的にサービスが不足している現状では、地域のサービス事業所に多くを頼ることはできない、という覚悟は今から持っています。であるなら、地域の事業所も共有できる紙の上のアセスメントとケアプランとは別に、瞬間的に相手の状態の変化を汲み取り、柔軟な対応をとっていけるという意味でのアセスメント能力を身近にいる人間が磨いていく必要がある、というのを今強く感じています。もちろん、それによって相手を問題視せず(敵対視せず)、相手も喜ぶ方向に心を導いていけるような関わりをこれから模索していかなければいけない、とも感じています。

 

 新たな試練は、いつも、新たな境地に達するための、稽古の始まり。

 改めまして、はじめの一歩様。

 自分自身が今持っている(持っていない)力を知る力。相手が蔵している力を見抜く力。それを最大限引き出す力。(自分にないものを持っている)自分以外の人に結びつけていく力。

そして、それらを実現し継続していくために必要な、明るく、大きく、温かな眼差し。

 

 私の「何かやりたいことはある?願望というか願いというか」という問いに対して、ある日、彼女が言いました。

 「病気を治したい。無理やろうけど病気が治ったら嬉しい。たまらなく嬉しい。それが何よりの一番の願い。」

 統合失調症は一般的に治らない病気と言われており、彼女も医師を初め周囲の人間からさんざんそのことは言われてきたようです。けれど、なお心の治癒を彼女の魂は求めている。

「統合失調症を治す、かぁ…。」

ほとんど人が足を踏み入れたことのない、太古のままの姿を残した神聖な森の前で立ち尽くしている私の姿が見えます。一歩足を踏み入れただけで、外界とはその場を満たす空気の質が違う、ということがはっきりと感知されます。光が届かず、地面は湿気を帯び、一面苔がびっしりと生えています。足が滑らないように、道に迷わないように、誰にも教わらなかった歩き方で、私は注意深く歩みを進めていきます。

 精神保健の常識は私には通用しません。何といっても素人ですから。

 広く、とてつもなく広く、そして深い介護の森の中を、これからも私は個性豊かなゆかいな仲間たちとともに歩んでいきます。いつか訪れるであろう光が差してくるその瞬間を見逃さないように目を凝らしながら。

      

PS.  小学生の時、国際絵画コンクールで銀賞に輝いたことのある彼女。
「こんな絵を小学生が描けるんだ」と
衝撃を受けたのを今でもはっきりと覚えています。

「今は頭がボーっとして幼稚な絵しか描けない」と言いつつ、
こちらがドキっとするくらい真っ直ぐな眼差しを
こちらに向けて描いてくれた似顔絵。私のお気に入りです。




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