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介護の森で見つけた光

中川 春彦
 介護のプロって何だろう?

そんなことを考えることがあります。経験を積めばある程度の知識は蓄積されます。技術もそれなりに高まってきます。ですが、よりよい仕事ができるようにと願うなら、それとは別に何かを学ぶ姿勢が必要になってきます。私はその努力は絶対に必要だと思っています。

ですが、どれだけ知識や技術を高めても、それだけでは補えない何かがある、というのを介護をしていく中で常に私は感じていました。逆に中途半端な知識や技術が邪魔をすることもあるな、と。

 介護職としての質を高めていく過程は、広大な森の中に足を踏み入れていくような感覚に似ています。

求める知識や技術を手に入れるためにはこの森の中に入らなければいけない。でも、森の中に入って、求めるものを手に入れて無事どこかに出られる保障はどこにもない。道に迷って出口を見つけられなくなるかもしれない。入ってすぐなら引き返すこともできるけど、ある程度まで来てしまったら引き返すこともできなくなるかもしれない。
 「あっちが正しい」「こっちが正しい」人は色んなことを言います。何が正しいのか分からなくなることもあります。

広大な介護という名の森の真ん中で多くの人が道に迷ってしまいます。迷ってはいない、正しい介護はこっちだと自信満々で人を迷わせる人もいます。
そんな森の中にあって、「これが正しかったのか」と一瞬であっても思わせてくれる、一筋の光のような出来事が時折舞い降りてくることがあります。そんなエピソードを不定期で綴っていこうというのがこのコーナーです。


初回である今回のタイトルは、「104歳のご満悦

ラヴィータ最高齢のSさんは御歳104。少しずつ食事を摂るのが難しくなり、話し合いの結果、5月30日の夕食から食事を止めることになりました。同時に水分摂取に関しても「決して無理はしないように、体がもう受けつけていないのだから」ということで、積極的にはいかないことが決まりました。

                  

もともとラヴィータでは「自然な看取りを」という方針があるので、看取り期における積極的な「治療」はしないように、(決して誘導はしませんが)ご家族にも自然死のメリットの話をさせて頂いていたし、スタッフにもその方針は浸透していましたが、こと「介護」、特に食事介助となると、もう少し食べてもらいたい、もう少し飲んでもらいたいという意識から、本人の死に向かう自然な過程に必ずしも合致しない介助をしてきたように思います。
それにはもちろん、その人に少しでも長く生きていてもらいたいという思いがあるわけですが、それが本当に「その人が本当に望む介助になっているか?」と改めて問われると、疑問符をつけざるをえない場面も少なからずあったように思います。

今回の(今までに比べ)少し早い段階での食事中止、という判断を下すきっかけになった1冊の本があります。

中村仁一という特養ホームの常勤配置医師の書いた『大往生したけりゃ医療とかかわるな 〜自然死のすすめ〜』という本。
その本の中にこんな一節があります。少し長くなりますが引用させてもらいます。


『自然死は、いわゆる“餓死”ですが、その実体は次のようなものです。

「飢餓」……脳内にモルヒネ様物質が分泌される
「脱水」……意識レベルが下がる
「酸欠」……脳内にモルヒネ様物質が分泌される
「炭酸ガス(二酸化炭素)貯留」……麻酔作用あり



つまり死に際は、何らの医療措置も行わなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな状態になるということです。これが、自然のしくみです。自然はそんなに苛酷ではないのです。私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです。

ところが、ここ30〜40年、死にかけるとすぐに病院に行くようになるなど、様相が一変しました。病院は、できるだけのことをして延命を図るのが使命です。

しかし「死」を、止めたり、治したりすることはできません。しかるに、治せない「死」に対して、治すためのパターン化した医療措置を行います。例えば、食べられなくなれば鼻から管を入れたり、胃ろう(お腹に穴を開けて、そこからチューブを通じて水分、栄養を補給する手技)を造設して栄養を与えたり、脱水なら点滴注射で水分補給を、貧血であれば輸血を、小便が出なければ利尿剤を、血圧が下がれば昇圧剤というようなことです。

これらは、せっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして不安も恐ろしさも寂しさも感じない幸せムードの中で死んでいける過程を、ぶち壊しているのです。』
さらにこう続きます。

『死に際の苦しみには医療による“虐待”ばかりではありません。介護による“拷問”もあるのです。それも、いい看取りを行っていると自負のある介護施設で起こりがちなのです。(中略)
 死に際には、飲み込む力も弱ってきます。しかし、心優しい介護職員は一口でも一匙でもと使命感に燃えて涙ぐましい努力をします。その結果、のど元にものが溜まってゴロゴロと音がして苦しみます。そうすると、鼻や口から管を入れて、それを吸い取る「吸引」という荒技を施さなくてはいけません。これは、死にゆく人間を二重に苦しめることになっているのですが、介護職員にはあまりその感覚はないようです。
 無理やり飲ませたり食べさせたりせず、穏やかな“自然死”コースにのせてやるのが本当に思いやりのある、いい“看取り”のはずです。時には介護においても、できることであっても控える方がよいこともあると考えなくてはいけません。』


 こういうことを思っていても、ここまで明快に、しかも公に語る人は今までいなかったように思います。

確かに、よかれと思ってやっていた介護が、本人にとっては“拷問”と言われても仕方がないような行為になってしまっていた、というのは過去何度となくあったと思います。それでも、特に食事に関しては、何となく今までの惰性で(今まで普通に食べていたのだから、と)介助してしまうということはあり、いつそれをやめていいものなのかはいつも判断に迷っていました。しかし、その結果苦しませる時期が長くなっただけなのでは?という思いがいつもありました。

 そういう今までの反省から、ギリギリのギリギリまで食べてもらうのではなく(そして喉がゴロゴロ鳴って吸引が必要な状況にまで至らせることなく)自然に亡くなる過程にできるだけ沿えるようにと、「まだ食べられるかもしれないけど年齢を考えてももういいだろう、これ以上はかわいそう」ということで、スタッフ間で話し合った上で中止することになったわけです。

 Sさんは食事を中止するかなり前の段階で、すでに手足に浮腫(むくみ)が出ていて、飲食はできるけれど、それを消化・吸収し、排泄するという一連の流れが滞っている段階にありました。体内に溜まった水分を排出できるように、ラシックス(利尿剤)が処方され、服用していましたが、そもそも排出できなくなった(出せなくなってものが溜まった)体に栄養や水分を必要以上に摂取する(入れる)必要があるのか、という声は上がっていました。ただ、Sさんは介助すれば、拒否なくパクパク食べるという状態にあったので、(決して無理はしないけれど)引き続き食べられるのであれば食べてもらおうということになっていました。

 そして、いよいよ介助してもなかなか食事・水分が摂れない状態になり、食事を中止することになったのですが、私に舞い降りた出来事というのはそれから2日経った6月1日の夕方に起こりました。

私は口の中を湿らす程度に、と思い、まず小さなコップにオレンジジュースを注ぎ入れました。ほんのちょっと入れるつもりが、勢いあまって30ccほど入ってしまいました。
「まぁいいか」と思い、Sさんの居室に入って、それを口腔ケア用のスポンジに吸わせ、Sさんの口まで運ぶと、
「ゴックン。ゴックン。」
勢いよくSさんがジュースをスポンジから吸って飲みました。
「あんまり飲み過ぎるとよくないよなぁ」と思いつつ、もう一度同じようにしてスポンジを口まで運ぶと、また
「ゴックン。ゴックン。」
すると、別のフロアーで早出を終えたスタッフがSさんの様子を見に、居室まで来ました。
「あ〜Sさんいい顔してる〜。」
そして、さらにもう一人スタッフが居室を覗きに来て、
「ほんまやなぁ」
Sさんは確かにいい表情で目もぱっちり。さらにジュースを飲み続け、「Sさんおいしい?」と私が尋ねると、言葉こそ出ませんでしたが、こちらの声はきちんと聞こえたのか、満面の笑みで応えてくれました。
「ちょうど喉が渇いとったんや。あ〜おいしいわ。ありがとうなぁ。」
そんな声が聞こえたような気がしました。側にいた2人のスタッフも「あ〜Sさん笑ってる〜。めちゃめちゃええ顔。」と嬉しそうにしていました。
結局30ccほどのジュースをむせることもなく、Sさんは全て飲み干しました。


私は中村仁一さんの先に紹介した本はとても勉強になったし、名著であると思っています。「介護という拷問」という言葉は、聞こえは良くないし、過激な表現で反発を招く恐れもありますが、今まで介護現場で当たり前に展開されてきた、本人にとっても介助者にとってもメリットの無い大変な食事介助は、拷問と称されても仕方がないような場面が確かに存在したし、その反省からそのような表現が出てきたのは、お年寄りからすればむしろ歓迎すべきことなのかもしれません。

ですが、私が心配するのは、私も含めて人間というのは、極端な方向に傾きやすい性質があるので、「死の間際まで少しでも多くの栄養(水分)を摂ってもらわなくてはいけない」から「いかないと判断したら(それも早めにした方がいい)全くいかない方がいい」という方向に現場全体がシフトチェンジしてしまわないか、ということでした。
Sさんは確かに、すでに栄養・水分の消化・吸収システムが正常に働かなくなっていたし、ここから再び回復することは難しいように思いました。ですが、じゃあ死ぬまで何も口に含まない方がいいかと問われれば、「経過を見なければ分からない」というのが本当のところだと思います。

スタッフは口を湿らす程度で考えていたが、本人はその時のどが渇いていて仕方がなかった。「飲みたい」という意思が働き、自ら積極的に「飲む」行為を行った。むせないように自分でも気をつけながら飲み込みを行った。だから寝ながらではあったが(ギャッジアップも少ししかしていなかったが)、むせることもなかった。

数年前から「生き仏様」と呼ばれ、後光が差したような何とも言えないいい顔で笑うSさんではありましたが、あの時のご満悦なSさんの表情を私はきっといつまでも忘れないと思います。

平成24年6月8日深夜0時15分Sさんはご家族の見守る中、息を引き取りました。亡くなる少し前に苦しそうな呼吸が見られましたが、それ以外はほとんど苦しむことなく自然な形でSさんはあの世へと旅立たれました。

結局は右か左かの2者択一ではなく、亡くなるその時まで状態をこまかく観察し、その時々に応じたきめ細やかな介助をしていくより仕方がないのだというのを、Sさんのあの時の表情から私は学ばせてもらった気がしています。

何が正しいかはいつもお年寄り本人が教えてくれる。私たちは勉強はするけれど、決して紙の上で学んだことをお年寄りに押し付けてはならないのだと思います。
謙虚な姿勢で私たちは学び続けます。森の中で迷い、何が正しいのか分からなくなってもお年寄りの表情を見ながら、また新たな光を見つけていきたいと思います。



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