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婆ちゃんたちから教えてもらったこと

「静」からの教え

 先日、大好きな婆ちゃんが旅立って行きました。

104歳の大往生というのでしょうか。彼女は静かでいつもにこやかで、声を荒げたことは一度もなく、私達を癒してくれる、まるで仏様のような人でした。慌しく流れがちな職場での時間を、彼女は「ほらほら、・・・あわてないの、気持ちをゆったりとね」と、教えてくれているかのようでした。それは不思議なくらい誰が傍に行っても周りの時間をゆったり静かに流れさせてくれる人でした。

2年程前から「おはようございます」の挨拶くらいしか会話はできなくなっていましたが、声掛けにはしっかり頷いて、自分の意思を伝えてくれていました。

二人っきりになると私はいつも「あのな、マツエさん、聞いてくれる?」と、楽しかったこと、悲しいこと、腹の立つこと失敗したこと・・・話しては聞いて貰い「ありがとう、おやすみ。チュッしてもいい?」 と、ホッペにチュッさせて貰うのが日課でした。




「動」からの教え
 そんな凄い婆ちゃんが亡くなり、一週間後、正反対に暴れん坊で、けれど愛おしい、愛おしい別の婆ちゃんが旅立ちました。婆ちゃんは私に本当に数多くの事を教えてくれました。

婆ちゃんとの出会いは7年前、介護という仕事を初めてやらせて頂けるようになり、縁あって婆ちゃんがいるフロアーの担当となりました。入居者、14名という、ゆったりとした中で格別しっかりとし、お局さんのごとく皆のテーブルの少し離れた位置から、もう一人の超わがままなT婆ちゃん(彼女も私の担当だった)と二人だけで座り、スタッフを呼びつけては「アイツはこんな所に座らせたらあかん、あっちに連れて行き」など指図する、なんとも意地悪なばあさん二人組みでした。

婆ちゃんがラヴィータにやってきたのは自宅で転倒、骨折、入院。療養棟で安定剤を服用させられすっかり活気がなくなり、「このままでは・・」と心配した娘さんが、ラヴィータの情報を聞き、入居となりました。入居後より、服用していた薬の必要性がない事を確認し中止。どんどん回復し、4階では1番しっかり者で手のかからない(部屋の掃除も着替えも、排便のコントロールも自分でできる)婆ちゃんに戻りました。

几帳面な性格で部屋はいつも片付き、朝は5時に起き、毎日100枚のタオルを水に濡らし、程よく絞り、慣れた手つきできっちりおしぼり状に巻いてくれます。彼女にはこだわりがあり、入れる袋にテープでマチを作り、1列にタオル○本と決まっていました。部屋ではよく新聞や雑誌を読み、必要以外(ラジオ体操は好きだったなあ)出てこようとせず、スタッフが伺うと「これ、持って行き」と言ってはティッシュに故郷沖縄の黒糖を包んで持たせてくれました。部屋に貼り付けた大きなカレンダーには○×印がつけられていて自分で排便の確認をしては「○日でていないから今日センナ(薬草茶の下剤)飲むからちょうだい」なんて催促もあるほどでした。トイレも鍵をかけ自分で行ってしまうので自己申告状態でした。


少しずつ異変はじまる

 一年後くらいから、排泄表のチエック欄が他の人は詳しく記入してあるのに、自分でトイレに行く事のできる彼女の欄は記入漏れもあり、それを見て「私だけ書いていない。私だけ薬を貰えない。私を首にする気なんか」の激しい訴えが目立つようになりました。婆ちゃんは難聴でスタッフの話しも聞き取りにくく、思い違いが多くあるようでした。

野口副施設長より「きちんと向きあって話を聞いてやらなきゃダメだよ。本人が納得してないよ。最後まで聞いてやらなきゃ」と、よく叱られました。まだ日々の仕事に追われ余裕のなかった私には担当でもない婆ちゃん(当時は担当でなかった)ましてや意地悪な婆ちゃんに腰をすえて話を聞くなんてそんな間はないよ。野口さんは理想を語ってるわ・・なんて思い、話は聞くが上べだけでした。

そのうち益々、婆ちゃんの混乱はエスカレートしてきました。あの時、本気で婆ちゃんの思いに向き合っていれば穏やかに過ごせたかもしれない。混乱をより作った原因はここにあったのかもしれない・・・「○○がなくなった。○○が盗った。」と、興奮し怒鳴り散らす。その様子を見て面会に来た娘さんが「どうしたら良いのか・・・」と泣き出す。スタッフの移動があり、この頃より私が担当になりました。トイレや部屋にもすぐに鍵をかけてしまうので排泄状況を確認するのもひと苦労。何事もサッサとしないと気に入らない婆ちゃんは、サッサと汚れた服を着替えては(季節がちぐはぐな服)時にはズボンの片方に両足入れたり、ブラウスをはいたりして歩くので転倒もする。何度も困ってはスタッフ間で相談しました。

当時勉強していた竹内先生式認知症の分類やドールセラピーを始めました。分類は勿論、葛藤型です。「わからん、わからん・・・」と混乱していく自分と、几帳面で「これはやっておかないと」という自分が共存し、益々混乱するのでしょうね。この期間約2年。「生活暦を詳しく聞いてみれば?」の助言もあり、一緒に悩んでいた娘さんにお願いすると詳しく教えていただくことが出来ました。これがまた発見があり面白いんですよね。不思議な行動も全部意味のある行動で、解決策が隠されていました。

落ち着いていても夕食前になると急に忙しく動き回る日が続きました。どんなに忙しくても、家族にご飯をしっかり食べさせる事に一生懸命だった婆ちゃんの体内時計がそうさせたみたいです。食器や布巾を渡し、好きに使ってもらうことで落ち着くこともありました。服や物をひもでしばり、まとめては背負う。固くほどけないように縛る。布団や椅子も膝折れする足で歩いて運び出す。(認知症って凄いですね。しっかりしている時は歩行を嫌がり、車椅子に座ったままだったのに、骨折した足で膝が痛くなっても歩いているんです。)親戚のお店のお手伝いをしていた為、戦後闇市で荷物をいっぱい担いで買い物をしたそうです。まとめて背負うのはこれなんですね。

何かを始める前には必ず、冬の寒い日でもズボンを膝までまくり上げるんです。スタッフは、「あっ!戦闘開始の合図や」と言って徘徊が始まるのを察知しました。大変な仕事を始める時のスタイルだったのでしょうね。急にものすごい勢いで扉を探し、出て行こうとする事が多々ありました。ベランダの戸を閉めると他人の居室へ入り網戸を壊して外へ出たり、車椅子を乗り捨て非常階段へ出たり、障害物は洗濯機も動かしたり、腰まである壁も乗り越える。4階にある庭園の縁を歩く。「お願い、もう行かんといて」としがみついて泣いてしまったこともありました。こんな時は畑の傍で用足しをしており、結局トイレを探していたんですね。(昔はよく、トイレが外にありましたよね)それがわかると、スタッフの皆が婆ちゃんの排便状況を特に意識し「あっ、今日○日出ていないなあ・・」と認識し、ソワソワしだすとすぐにトイレ誘導することで解決するようになりました。この頃の認知症分類は、回帰型にかわったかな?


精神科受診 入院?

夜も殆ど寝ず大暴れ。24時間どこで何をしているか把握していないとビックリ仰天な出来事が満載でした。異食もありで「本人が一番しんどいんだから・・」と、精神科の受診、服薬が始まり、風邪薬も殆ど飲んだことのなかった体には薬が効きすぎ、グテングテンになっても立ち上がりアザが絶えない。婆ちゃん一人に付きっきりのスタッフが必要で、特に夕方から夜中は手に負えなくなってきました。Drからも「こんな症状が出ては、専門の病院へ入院した方が良いかも」と入院の話しが出ました。疲れた娘さんも病院の見学にまで出かけました。


話し合い

娘さんを交え、今後の事を話し合いました。私も必死になりすぎて、「出来る限り薬は飲ませたくない。関わりを。」と言い続け、周りを疲れさせている事も感じていました。迷っている娘さんに「もう一度、一緒に頑張らさせてください」と、お願いしました。勿論、ラヴィータでもそうさせて貰えるだろう、皆も協力してくれるだろうと思ったので言えた言葉ですあの頃の話をする度に娘さんは「あの時は本当に疲れていた・・・そういって貰え、嬉しく心強かった」と話してくださいます。また、娘さんからは「夜中も暴れて迷惑かけているのかな?と思うと家に居ても心配なので毎晩、泊まりに来ます。」と、申し出があり、その日から亡くなる日まで4年間、御家族との共同介護が始まりました。


家族の宿泊始まる

スタッフが一人になる夜間には4人の御兄妹で代わる代わる毎日泊まり、添い寝してくださり、1ヶ月を過ぎる頃には、午前中はすっかり落ち着きはじめた婆ちゃんでした。半年後から、都合により、三女さんと長男さんのお二人で交代しての付き添いになりました。傍にいても夜間は、何度も起きる婆ちゃんなので、2年後には三女さんの疲労もピークとなっているのを感じ、夜勤帯のスタッフも一人から二人勤務の日も作ってもらい、少しでもご家族の負担を軽減していただくようにしました。母親を気遣う息子さんは「僕は大丈夫だよ」と、いつも笑顔で週に3回は泊まられ、早朝に、添い寝していた布団からこっそり抜け出し「よろしくお願いします」と、スタッフに頭を下げ、仕事へ行かれる後姿を今でもはっきりと覚えています。優しい婆ちゃんも、息子さんが出掛ける時は眠っている振りをしている事がよくありました。

それでも元気一杯で徘徊はつきもの。転倒防止に居室にマットを敷き、ベットから床での生活にしました。ジョイントマットのカラフルなのを敷き詰め部屋の模様替え。婆ちゃんはいざって運動。床の上でゴロンとできるので、今までは一人の付き添いしかできなかったのも姉妹二人で泊まられたり、孫さんが赤ちゃんを連れて一緒に添い寝したり、大晦日には紅白歌合戦を一緒に見ながら一杯飲んだり、スタッフも一緒に昼寝したりと憩いのスペースにもなりました。一緒に寝ると、気持ちの優しい婆ちゃんは自分の布団を手繰り寄せて、私達にかけてくれるんです。さっきまで叩かれたり蹴れたりしても、この優しさと笑顔で帳消しにしてしまう彼女特有な技もありでした。


最期の日が近づく

元より1年に一度くらいのペースで意識消失があった婆ちゃんでしたが、亡くなる1年前くらいからは月に2.〜3回その様な状態があり、徐々に体重も減少し体力もなくなり、徘徊もできず穏やかな笑顔の婆ちゃんになっていました。それでも食欲はあり手づかみでパクパク、たくましさが最期までありました。

亡くなる二日前より下血が始まり座ることもできなくなりましたが、大好きな沖縄の音楽にあわせ、寝ながら手を上げ、亡くなる数時間前まで踊っているようでした。最期の日におこなったカンフアレンスでは、Dr.からも「絶食で、水で口を湿らす程度くらいが医療的には望ましいが本人が欲しがるものを与えないのは、よりかわいそうな事なので、無理のないよう水分摂取も良いのでは・・・」と話があり本人の思いを受け入れ、かつ苦しまないようにという事を皆で確認しあいました。

                                     
最期

亡くなる数分前まで口を大きく開け、水を含んだスポンジを力強く吸ったようです。殆ど息をあらげることなく、皆が席を外した間に天国へ旅立った婆ちゃんでした。亡くなった後も婆ちゃんの顔は少しづつ変わり、穏やかに眠っている顔から目をへの字にして笑っている顔になっているのにびっくりでした。

お葬式の日、誕生日にプレゼントにしたアルバムを飾ってくださっていました。
いっぱい思い出が蘇りました。「施設にいて、わたしたちのできない事を沢山してもらい、婆ちゃんの家のように泊まらせてもらって、こんな風にできるんやってとっても嬉しかった」と、話されていました。「婆ちゃんの為にいっぱい泣かせてしまいましたね・・・さあ、気持ちを切り替えて仕事に行ってね。私達も笑顔で婆ちゃんをおくるから」と励まされてしまいました。私は、逆に御家族に甘え過ぎた部分もあり、精一杯つくされた御家族に頭が下がります。

「自分の思うようにやってみたら?」と、いつも応援して貰えるラヴィータでの環境であり、皆が同じ気持ちでいられたので、施設でありながら御家族との共同介護が出来たと思い感謝しています。


私にとって

よく、「介護って大変よね、お世話してあげて」って言われるのですが「してあげてたいへん」なんて思いません。「させていただく」でもないです。家族にはなれないけど共にありたい。私にとっては恋人みたいな存在ですかね・・・その人の事で悩んで頭がいっぱいになり、大好きで だからもっと知りたいと思い、大好きな人の家族だからその家族のことも好きになって・・・
 
今、婆ちゃんは元カノになってしまいました・・・
元カノの思いをひきずりながらもまた次の恋をしてしまうのでしょうか・・・
2012・6・18
山下 恵理子



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